« 2000年6月 | メイン | 2017年4月 »

2007年6月 アーカイブ

2007年6月11日

立圃筆休息歌仙図

img_collections_023.jpg

三九・五×八五三・三 紙本淡彩 巻子

 三十六歌仙を花と月の左右十八組に配し、歌仙の名を詠み込んだ句を賛とする。淡彩で描かれた三十六歌仙は、くつろいだ姿で、その姿態と表情は俳味に溢れている。この作品は人気を博したとみえて数多く制作され、また版本も出された。いわゆる俳画は、この画に始まるといえる。

 立圃(りゅうほ)は野々口親重、別号松翁・無文。京の人。貞門七俳仙の一人。重頼の『犬子集』に対抗し、一門の句を増補した『誹諧発句帳』を刊行。式目書『はなひ草』も刊行して一派を形成した。江戸・大坂でも門派を作る一方、備後国福山の水野勝俊に召された時期もある。俳画の祖と称され、画・俳両面にすぐれた。文禄四(一五九五)〜寛文九(一六六九)


2007年6月15日

宗因賛西鶴画花見西行偃息図

img_collections_033.jpg

二九・四×四五・四 紙本淡彩 軸装

 宗因の句は、万治元年(一六五八)刊『牛飼』に初出するが、筆蹟は晩年のもの。画に落款を欠くが、その手法から西鶴筆とされる。西行法師の歌「ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそかなしかりけれ」の上の句を用い、花を眺めすぎて首を痛めたと笑いに転じた句。人気の高い宗因の代表句である。

 西鶴(さいかく)は井原氏、別号鶴永・二万翁ほか。大坂の人。宗因門。『生玉万句』『歌仙大坂俳諧師』を刊行し、談林・宗因風俳諧を宣伝。また矢数俳諧を始め、一昼夜に二万三千五百句を成就した。宗因没後は小説に転じ、『好色一代男』『世間胸算用』などの傑作を発表した。一方、伊丹にあった宗旦の俳諧塾「也雲軒」をしばしば訪問し、愛宕祭をみて「あたご火のかはらけなげや伊丹坂」と詠んだ。また、著書『西鶴織留』巻一「津の国のかくれ里」は伊丹の造り酒屋の息子を主人公とした浮世草子で、書名どおり摂津の国の富裕な伊丹の町や、様々な文芸を楽しんだ当時の伊丹の町人の様子を生き生きと描写した。寛永十九(一六四二)〜元禄六(一六九三)


西鶴自画賛十二カ月

img_collections_035.jpg

各二三・五×三三・五 紙本淡彩 帖
(伊丹市指定文化財)

 西鶴が正月から十二月までの月々の自作の句に、句意をあらわす画を描いたもの。前書と句と画の照応に妙味があり、前書には付句の味わいがある。本点は西鶴が描く画の傑作品。中から一、二の内容を見ると、二月には釈迦の死つまり二月十五日の涅槃会を詠む。前書で、釈迦一代の遺教八千巻の経典を、金子八千貫にとりなす。また仏説には衆生は皆釈迦の子ということから、遺産の八千貫は皆子供たちに与えよ、という。世の中はわからないものだ。無欲で慈悲深いお釈迦様でも、死んだあとに八千貫もの遺産があったの意。金次第の世の中への風刺。四月には、綿入れを脱いで袷になる四月一日の更衣を詠む。春衣裳の袖を連ねて出掛けた花見の花も絶えて、女中が着ている衣も今朝は名残だけという前書。続く句は、長持に春の思い出のこもった春衣裳をしまっていくと、長持の中へ春が暮れていくみたいだの意味。「行く春」を惜しむ和歌的表現を、日常卑近な「長持」と結びつけ、誇張表現した句。


芭蕉筆「はなの雲」句扇面

img_collections_053.jpg

一八・〇×四九・〇 扇子

 句は、『続虚栗』に「草庵」と前書して載る。深川の芭蕉庵から爛漫たる江戸の春を遠く眺めて詠んだもの。駘蕩たる春景を詠んだこの句は人々に好まれ、揮毫の依頼も多かったらしく、ほかにも真蹟が伝わる。本点は、扇子の折目に文字がかからないように配慮され、多少細長い字となっている。揮毫依頼者が持参して芭蕉に書かせたものと推察される。桜花を散らした豪華な扇面と筆蹟との調和が美しい。


許六筆百華賦

img_collections_066.jpg

二六・六×八三八・四 紙本淡彩 巻子

 許六が梅・桜をはじめ約三十種の花を描き、それぞれの花を独自の創造力と機知をもって様々な女性像に例えて品評し、戯文を書き付けた巻物。「画ハとって予(芭蕉)が師とし、風雅(俳諧)はをしえて予が弟子」(「許六離別詞」No.64より)とした許六の自信作。末尾に記された汶村の職語によって、許六が残した九点の「百華賦」の行方、および本点がその最初の巻物にあたることなどが判明する。許六の「百華賦」の規範として、今後の俳諧研究に重要な役目を果たす資料である。


蕪村筆俳仙群会図

img_collections_107.jpg

八七・〇×三七・〇(全書画)
三五・〇×三七・〇(画)
絹本着彩(画) 軸装
(伊丹市指定文化財)

 本点は、絹本に十四人の俳仙、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿(巴人)の像を描く。落款は「朝滄」、印は「丹青不知老至」。中段絹本には任口以外の十三人の代表句を記す。さらに上段に蕪村が後年になって求めに応じて書き加えた賛詞がある。それによるとこの俳仙図は「元文のむかし」すなわち蕪村二十歳代前半の作品で、現存する蕪村画の中で最も初期のもの。ただし丹後時代の作とする説もある。狩野土佐折衷様式をもつ江戸狩野の特色が強い。

 蕪村(ぶ そん)は谷口氏のち与謝氏、初号宰町、庵号夜半亭ほか。摂津国毛馬生まれ、東下のち京に住む。巴人門。巴人の夜半亭を継承。「離俗」を理念に、芭蕉亡き後の俳壇を導く。一方、画においても中国絵画の技法を日本の風土に生かし、日本文人画と称すべき画法を確立して一家を成した。俳画の大成者。享保元(一七一六)〜天明三(一七八三)


几董夏興 蕪村画諫鞁鳥図 全紙 六回摺

img_collections_151.jpg

芭蕉筆「ふる池や」句短冊 (色違打曇)

img_collections_052.jpg

(伊丹市指定文化財)

 この句は、芭蕉開眼の句として古来有名なため、偽筆も多いが、本点は稀にみる真蹟。句は、貞享三年(一六八六)刊行の『蛙合』に発表された。伝統的な和歌の優美な世界では、清流に配し「鳴く蛙」が定着していたが、芭蕉は蛙を古池に配し、「飛ぶ蛙」の水音をとらえた。そこに俳諧の新しい手柄がある。

 本点は、温雅悠揚たる筆致で、落款「はせを」や「婦」「や」「込」に貞享後期の特色がよく出ており、伝存する「ふる池」短冊中の白眉とされる。著書『芭蕉の筆蹟』で岡田利兵衞(柿衞)は芭蕉筆蹟学の礎を築いたが、本点はその代表的資料といえる。


鬼貫筆「にょっぽりと」句一行物

img_collections_087.jpg

一三四・二×三一・五 軸装
(伊丹市指定文化財)

 鬼貫は、貞享三年(一六八六)仕官のため江戸へ下る時、親友の鸞動から「一緒したいが病気のため行けない。だからはっきりと富士の景象を見て知らせてほしい」と頼まれた。だが帰ってみると、鸞動はすでに亡く、郷里伊丹の墨染寺の彼の塚前に額づいて報告したのがこの句である。句作は貞享だが、本点は後に嘱されて書いた作品。「仏兄」は鬼貫の別号。「にょっぽり」は俗語で「のっぽり高い」の意味。


一茶筆「賀六十」自画賛

img_collections_122.jpg

一三二・五×二八・四 紙本墨画 軸装

 自画像とおぼしき人物を描き、賛を加える。「人も一茶」と款するのは得意の手段で、花押は蝸牛形。画は一筆画とも思われる練達の線画で、一茶が自画像を描く折の独自の手法。書に素朴さがにじみ出ている。「賀六十」とあり、揮毫年次は文政五年(一八二二)。諸事解決して乏しさの中に親子三人で落ち着いた、生涯の最も平和な年の作品。

 一茶(い っさ)は小林氏、別号亜堂・俳諧寺など。信濃の人。趣味化通俗化に低迷する化政期俳壇の中で、貧しい農村の現実を直視した一茶の俳風は、ひときわ異彩を放った。正岡子規は、一茶の句の生命は、滑稽・諷刺・慈愛にあると指摘した。編著『おらが春』『一茶句日記』ほか。宝暦十三(一七六三)〜文政十(一八二七)


About 2007年6月

2007年6月にブログ「公益財団法人柿衞文庫」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2000年6月です。

次のアーカイブは2017年4月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type Pro